情熱が行動を促す
【2014年6月30日 執筆】
2013年6月に新卒で入社したハウスメーカーの会社を早期退職した。
新卒の3割が3ヶ月以内に離職するといわれている中に自分も加わった。
辞めて本当に良かったと思っているが、辞めてから今までの約1年間は思い返したくないぐらいしんどかった。この約1年をもう一度やり直せと言われたら、過酷でしかない。それだけ自分の中でやりきったと思っているし、頑張ったと言い切れる。
2013年7月。離職して地元、山梨に戻った。戻ってからはすぐにアルバイトを探した。選んだアルバイト先はユニクロ。店長との面接が印象的だった。
就職活動をしながらアルバイトをしたい旨を伝え、自分の夢に向かって頑張りたいと話したところ、「夢があることはいいことだ」と言われ店長からその場で即採用された。
とにかく金欠だったから8月は就活よりもアルバイトに比重を置いた。
「東京に出て優秀な人たちと仕事をしたい」という想いを胸に秘め、行動した。
早期退職という悪いイメージをネガティブには考えたくなかった。
ピータードラッカーの「最初の就職はくじ引きみたいなものだ」という言葉を知り、現状を受け入れて前を向いた。
前職の経験から、「会社で働くってこんなんなのか」「もっと違う働き方があるのではないか」と常に疑問を抱いていた。
そんな時、書店で手にした週刊東洋経済の1冊が自分の価値観を大きく動かした。起業家特集のページでリブセンス社長の村上太一さんが大きく掲載されている下に、
"1つの肩書きや仕事、組織に縛られず幸せな働き方追求"
スプリー代表 安藤美冬
と書かれており、この一文に目が留まった。
大学講師・商品企画・企業コンサルティング・会社経営など幅広く活動し、
ノマド(遊牧民)という新しい働き方を追求。
これ以後、安藤美冬さんが気になりユーチューブで動画も観た。
知的エンターテイメントko-enという20分弱の動画で安藤美冬さんの虜になった。
「私の職業は安藤美冬です」
この一言が自分の中であまりにも新鮮で一瞬で心を奪われた。
「このような働き方が出来るんだったら自分もこうなりたい」
純粋にそう思った。
自分ブランディングを確立し、自分の名前で仕事をしていく。
そのために、20代のうちに会社に頼らなくても生きていけるだけのスキルや人脈、経験を積む。
「憧れは憧れではない。同じ人間なのだから。」
何かの本で読んだ一文が脳裏に浮かんだ。
「自分にも出来る。リスクを恐れて出来ない理由を考えてやらないだけだ。」
そう思った。これがきっかけで約1年の就活を乗り越えられたのだと思う。
本を読むのが好きな私は、自己啓発書・ビジネス書を読み漁った。
色んな本を読んでいくうちに、安藤美冬さんのような働き方をしている人が他にもいることを知った。
ニュージーランドと日本を行き来するアーティストプロデューサーの四角大輔さん。
ハワイと日本を行き来するレバレッジコンサルティング株式会社代表取締役社長の本田直之さん。
一人、また一人と本を読んでいくことで枝分かれのように拡がっていった。
他にも千田琢哉・里中李生・川北義則・井上裕之などの本を読み、モチベーションを高めた。
だが、早期退職からの就活は想像以上にきつかった。厳しいのは分かっていたが、流石にここまで厳しいとは思わなかった。
書類選考で落とされまくり、面接に辿り着くのは本当に数社だった。
9月10月もアルバイトと就活の日々に追われたが、山梨から東京へ出ての就職活動は険しかった。稼いだアルバイト代は、交通費や奨学金の返済で失った。
金欠の日々が続き、一番ひどかった時は通帳の残高が123円だった。
通帳とにらめっこして思わず笑った。
ストレスは溜まるいっぽうだった。
家にいるとお袋が祖母の愚痴を毎日のように言っていた。
父方の祖母の世話が相当なストレスだったのだろう。
90歳の老人介護が大変なのは分かる。
ただ、愚痴のはけ口が自分に向けられるのが辛かった。
自分も祖母の世話を手伝って大変なことがわかっていたから、お袋に対してそんなに強く当たることは出来なかった。
11月に入り、ある決断をした。求人も減りつつあったし、一人で就職活動をするのが内心やはりしんどかったので、求職者支援訓練のWebデザイナー科に4ヶ月間通い始めた。
ここで新たな出会いがあった。世代はバラバラで、自分は最年少の一人だった。20代・30代・40代の計10数名が集結した。
自分より人生経験豊富な人が多かったから、歳上の人間と話すのは刺激的だった。
この訓練がスタートしたことによって、11月から3月中旬までは自分にとって休みといえる日は祝日ぐらいしかなかった。
平日は職練で土日はユニクロ。この生活がしばらく続いた。
丸一日休みを取れる日は少なかったけど、その分、充実していた。
ストレスも軽減したほうだったかもしれない。
この4ヶ月間で学んだことは大きかった。
ワード・エクセル・イラストレーター・フォトショップ・ホームページ制作・パワーポイント・ITマーケティング・著名人による講話など様々なことを学んだ。
年明けの2月、歴史的な大雪が山梨に甚大な被害をもたらした。
初めて見る光景だった。
車を覆ってしまうほどの積雪で、1週間は雪かきの毎日が続いた。
地域住民と協力し合い、道路の雪をスコップで除雪した。
この影響でアルバイトも就活も出来なくなり、通帳の残高が123円になる本当の金欠スタートを切った。
そしてこの大雪の中、90歳の祖母が息を引き取った。
危篤状態になって、医者から「あと数時間もてばいいほうです」と言われていた祖母が、一度息を吹き返した瞬間は周囲の誰もが驚愕した。
数時間をはるかに上回り、必死に死と闘い亡くなった。
人間の生きる力を見た。
「人は死ぬのが怖くて、こんなに身体がヨボヨボになるまで結局は生きたいと思うのか」
「自分はここまで生きたいと思うか」
「周りは生きて、自分は死ぬ。最後はやっぱり孤独なんだな」
こんな言葉たちが頭の中で交錯していた。
祖母が亡くなってから、お袋の愚痴は一切無くなり顔の表情も柔らかくなっていた。
「やっとこれで少し楽になった」
人が亡くなってこんなことを思うのは決して良いイメージではないかもしれないが、これが現実だった。
2014年の2月は印象に強く残った月となった。
3月に入り、職業訓練を修了した。
「訓練修了後、3ヶ月以内に就職を決めないと難しい」
訓練の先生からこう伝えられた。
6月で離職して1年が経つ。そしてこの時期は求人数が多い時期。
ここを逃したら怠惰になって離職期間が長くなるだけだと感じた。
そんな中、ある人材紹介会社の就職支援プログラムに参加することを決めた。
場所は立川で期間は2週間。
ここで10数名の新しい仲間と出会った。
全員が20代。あっという間に親密になった。
講師は丸坊主で威圧感MAXだったが、厳しさの中に優しさがある素晴らしい人だった。
この2週間の研修で2日間の飛び込み営業も初めて経験した。
企業や店舗、商店街をアポ無しで訪問。
「迷惑なんだよ」 「いま仕事中だから帰ってくれ」
視線も合わせてもらえず、こんな言葉を普通に浴びていた。
無意識に歩く速度は遅くなり、気付いたらベンチに腰を降ろしていた。
1日目は散々な結果だった。
研修場所に戻ると、重い空気が流れていた。
良い空気をつくるには音が重要であることを講義で学んでいたが、サイレントで皆が沈黙していた。
講師から叱咤激励を受け、2日目に臨んだ。
2日目は1日目の反省を踏まえ、考えるよりも先に行動した。
結果、名刺獲得数・販売冊数の目標は達成できたが、訪問件数は達成できなかった。
心のどこかで2つの目標を達成した自分に満足している自分がいた。
これが自分の甘さだった。
反骨心、ハングリー精神がまだまだ欠如している。
「お前は良い人で終わる」
講師から言われたこのたった一言の言葉の意味が、飛び込み営業を終えて分かる気がした。
満足したら成長は止まる。
もっともっと向上心を持って、結果にこだわる必要がある。
2週間の研修を終え、10数社の面接を受けれる集団面接会に参加した。
私は結果3社から内定をいただき悩んだが、講師やアルバイト先の店長、職業訓練でお世話になった先生にとことん相談し、身につくスキルや自分の将来像を考えた末にIT企業を選択した。
職業訓練の先生に相談した時には、その場で泣きそうになったが必死に堪えた。
相談を終えて人目が少ない駐車場に戻ったとき、講師の一言を思い出した。
「自分を褒めることが出来ない人は他人を褒めることが出来ない」
そして自分自身に語りかけるように言った。
「よく頑張ったな」
この瞬間、我慢が出来ずに泣いた。
約1年が走馬灯のように頭の中を駆け巡り、砂利の上で跪いて泣いていた。
「やっと落ち着いたんだ」
無気力の日が何日か続いた。
それだけ充実した1年だった。
約1年お世話になったユニクロは6月15日に退社した。
周りの人達が本当に温かい人ばかりで、最高のスタッフの方々と仕事が出来て感謝の気持ちで一杯になった。
笑って、楽しんで、助け合って、最後に感動した場所だった
人は人からでしか1番の感動を得ることができない。
自分が感謝の気持ちを伝えなければ、相手からは感謝されない。
好意の返報性という言葉があるがまさにそれだと思う。
「他に貢献する」
この軸をぶらすことなく、前進する。
数年後の自分に今の自分が伝えておきたい。
この1年を忘れないでほしい。
ありがとう
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